外泊はすぐ許可が出た。咲はこの週末に帰ってくることになった。そうすると合格者登校日までの一週間近く家にいることになる。今までになく長い外泊なのだが、どうやら退院に向けて元の環境に少しづつ慣らしていく意味らしかった。
週末の夜に会社が終わってから病院に直行で迎えにいくと、あの子は大きな荷物を持って待っていた。教科書類と英語リスニングCD、他には多すぎた私服などだということだった。退院を見込んで少しづつ荷物を持ち帰るつもりだと、本人はにこにこしながら言った。「にこにこ」なんて!入院と志望校合格、中学校脱出の合わせ技効果なんだろうか、病気発覚のときとは全然違う様子だ。真っ黒の墨で塗りつぶしたような瞳じゃなくなってる。嬉しかった。
退院については保護者の私は主治医の先生とはまだ何も話せていなかった。でも相葉さんと相談の上で荷物を持ち帰るのだと言うし、本当に退院が近くなってきているんだろう。
帰りの車の中でも高校のことを嬉しそうに、でもちょっと不安そうに話している。家に帰ったら実樹に高校の話を聞けることが楽しみのようだ。あの子はずっと自分の姉を目標、ライバル、ともだちと思っていた。そして姉に追いつくために時には無理もしてきていた。実樹と同じ高校に通えることは咲にとっては目標の達成だと思うが、そうやって張り合う気持ちは発症の要因の一つだったと思う。
実樹は運動部に所属していることもあって本当に忙しい様子だ。そんな姉をトレースして運動部に入るのは危険だ。退院してすぐにはそんなに過酷な日程はこなせないだろう。
私は「運動部には入ってはダメ、文化部の活動が週1回くらいのところにしておいて」と車を運転しながら助手席の本人に言った。
「そうだよね」と咲は納得している様子だった。「幽霊部員でもいいよ」と付け足した。本音を言えば「部活なんかに入れないでくれ」と思っていたけれど、そこまでは言えなかった。
中学では「部活を続けたい」という本人の希望を尊重してしまった結果このような事態になってしまった。
今にして思えば「本人が続けたいと言っているんだから」と思考停止して辞めさせなかったのが大きな失敗だった。子供は10数年の人生経験と知識しかないのに、大きな判断を任せてはいけないのだ。私たちが介入するべきだった。
入部してしまってからだってまだ引き返せたはずだった。ブラック部活だと判明した時点で私たちは親の権限を発動してさっさと部活をやめさせておくことだってできたはずだ。
現状を変える(この場合は部活を辞める)ことは、続けることよりも大きなエネルギーがいる。それもあって私たち両親は部活を辞めさせる決断をできなかった。判断できずに思考停止した結果、学年が上がってポジションも確立し、さらに辞めにくい状況になってしまった。
辞めさせていれば……。
部活を辞めさせたことで一時恨まれたとしても、それで済むのなら子供がうつ病になってしまうより比べ物にならないマシさだった。そのときに子供を傷つけてしまったとしても、誠心誠意をこめて埋め合わせをすればきっと償えた。
結局私たちが、いや、主に対応している私が、面倒事を嫌ったのだ。
「自分たちは悪くない!部活が悪い、学校が悪い!メンバーが最悪だ!」と被害者の主張をし続け、そのくせ事態を改善させるための行動をしなかった。私こそがブラック親だった。
理不尽な目に遭うことだってある。世の中にはおかしな組織もブラックな環境も星の数ほど存在するだろう。生きていれば誰でも何度か経験することではないか。
でもそのような悪い何かの事象ににぶち当たってしまったときに、もしも賢い人だったら自分で考え、行動することでその状況から脱することができる。その思考と行動で未来の明暗が分かれていく。
もし、考えても行動してもそれが個人にはどうしようもないことなのなら、耐え続けるのではなく逃げれば(辞めれば)よかったのだ。逃げるという選択肢を持つべきだった。
行動しないことが暗い結果を招いた。私の事なかれ主義の行動が咲のうつ病を招いた。私のせいなのだ……
悪いグループや職場から脱出したいとき、すぐ辞めるとなると「根性論による抵抗」があると思う。
「根性無しが」とかなんとか自分を叱責する考えが勝手に浮かんでくる。周囲もそのような内容を言うだろう。でも周囲は好きなことを言ってるだけで何の責任もとってはくれない。周囲の声を気にする必要などない。
そもそも、根性を出していいのは「続けた先に明るい未来があると信じられるとき」のみだと思う。
「強くなる」や「○○一位になる」などの強い信念を持ち辛いことに耐えて何かを達成するのが正しい根性の使い方ではないか。
マイナスの理由、例えば「逃げたと思われたくない」とか「恥ずかしい」とか「入ったばかりなのに」とかの理由で辛いことを我慢しているのならさっさとやめて次に行った方がいい。
辛く、理不尽で先に希望がないことに耐え続けるのは人生の浪費だ。根性の出しどころを間違えている。
もちろん金銭面や人で不足などのすぐ辞められない事情だってあるだろう。それでもその状況を認識したら、自分が大きなダメージを受けてしまう前に、最善の策を考え辞めるために行動していくほうがいい。自分でよい考えが浮かばないのなら誰かに相談したっていい。ネットのyahoo知恵袋でも発言小町でもいい。
人はずっとずっと何かを耐え続けることはできない。必ず心と体のどこかに症状が出てくる。そのサインを無視し続けると、病気になってしまうのだ。
咲のサインを私はいくつも見逃していた。湿疹も、ケタケタ笑いも過眠も……。
だから今回は口を出す。ごめんね。埋め合わせはする。
合格者登校日までの間、咲は自宅でくつろいでいる様子だった。
実樹と話したりふざけたりはしていたけれど、すぐ疲れてしまうので寝ていることも多かった。春休み中なので友達と電車で出かけることもあった。出かけるとその次の日はずっと一日寝たきりになってしまう。本当に体力がない。高校でやっていけるのかが心配だった。
本音を言えば、「友達と出かける」と言って出かけるときは失踪するんじゃないか、逃亡するんじゃないかと気が気ではなかったが、平気なふりをして送り出した。せめて私には気を使わないでいいようにしてやりたかった。
入院中の外泊は毎日1回16時までに病棟に様子を連絡しなければならない。本人でも親でもいいのだけれど、二人とも忘れていて病棟から電話がかかってくることが何回もあった。迷惑をかけてしまったと思っている。
合格者登校日、どんなことを高校でやったのかは、帰りの車で咲が疲れて話さなかったので聞けなかった。病院に帰る道のりで咲は言った。「病院に戻ったら大部屋なんだよ、個室には状態が悪い人が入ってくるんだって」