土曜日の朝、朝食後にベッドに戻ろうとする咲に「新しい治療を受けられるかもしれないからこれから着替えて出かけるよ」と声をかけた。このとき初めてEMDRのことを話した。咲はどこでどんな治療を受ける見込みかを聞くと、のろのろとおとなしく出かける準備を始めた。その背中に車で一時間半かかることを言うと「着くまで車で寝てる…」と返事してきた。自分からは何も聞いてこなかった。私の勢いに逆らう元気もなくなってきたのかもしれなかったし、面倒に思ったのかもしれなかった。
10時ごろにN医院についた。明るく清潔感のある建物だった。電話で問い合わせたときに名前を聞かれていたのでスムーズに受付は終わった。
しかしそこから延々と待たされた。咲は待っている間に渡されていた問診表と心理テストを何枚もこなしてもう体力が無くなりぐったりしていた。それに医院の暖房が暑すぎて待合室にいるのも辛い様子だった。
あとどのくらい待つのか聞くと予約して受診している患者を全員診終わった後で診察するので夕方の5時過ぎになると言う。たしかに電話した時に電話越しに「かなり待ちますよ」と言われたが、ここまでとは思っていなかった。
通常は時間枠を区切ってその枠の中で予約した患者を先に診察し、予約なしの患者を各枠の最後に入れるのではないだろうか。しかしこの医院では当日受診する患者は先着順で受け付けて、定員がいっぱいになると断っているらしい。予約しない患者は待たなければいけないしくみになっている。ここは予約することが前提の医院なんだとわかった。急患だったら他の医院に行った方がいいのだろう。
それにしても午前に受付した患者を午後まで待たせて診察する医院には初めて遭遇した。具合が悪くて受診にきているのに、混雑している中でずっと待たされるのならもっと具合が悪くなりそうだ。医師が一人で複数の科(精神科と内科)を掛け持ちで診察しているようなので時間がかかるのかもしれない。最初から診察人数をしぼる仕組みにはできないのだろうか。
「精神科には普通の病院の常識は適用されないのかもしれない」私は本気でそう思った。大野医師も最初の診察は私の常識外だった。
咲の具合が悪そうになった。待ち時間が長すぎるので帰るという旨を受付に伝えると「受付した以上は診察してもらわねければいけない。」と受付の女の人は申し訳なさそうに言った。N医院はそういう決まりなのだそうだった。
私は本心では待たされてもいいから咲に診察を受けてほしかった。1時間半かけて一縷の望みをかけてここにきているし、診察を受けることでもしかしたら入院以外のルートが見つかるような気もまだしていた。咲は隣で私と受付の人のやりとりを聞いていて、「待つよ」と言った。
「咲がそう言ってくれるのなら」私はそう答えた。本当は私の方が診察を受けさせたかった。
あまりに待ち時間が長いので私たちは一旦医院から出てまた5時過ぎに戻ってくることにした。咲は医院から出るとすこし元気が出てきた。お昼ご飯がまだだったので私はどこか食事ができるところを車を走らせて探した。そしてたまたまスーパー銭湯を見つけて入った。
さまざまな種類のお風呂を試し、食事もして私たちは気分が和らいで笑った。館内の売店で咲は好きなお菓子を買った。笑顔は久しぶりに見た。淡く儚い笑顔だった。