中3 85 外出の終わり

中学3年
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食事のあとは咲を病院に送って私たちは家に帰った。名残惜しかったが、本人はためらわずにドアの内側に消えていった。朝渡された外出許可証はケースごと病棟のドアを開けてくれた看護師さんらしき人に渡した。

渡そうとした漫画は私がそのまま持ち帰った。

(後日自分で読みました)

次は高校受験の時に外出になるはずだった。帰りの車で夫と咲の様子の感想を話しあった。「少し元気になってきたように見える」というのが共通の感想だった。

回復してきたのだとしたら入院のおかげで、病院のトークンエコノミーという謎の療法が効いたのかもしれない。そうでなかったのなら久々の外出で喜んでいたのかもしれないし、病棟で仲良くなった子たちと話せるからかもしれない。学校に行くプレッシャーから解放されたからかもしれない。休んで少し回復したのかもしれない。

理由はいろいろ考えつくけれど、なぜ回復してきたのか正解は誰にもわからない。そもそも今日はたまたま調子が良かっただけで、実は回復なんてしていないのかもしれない。

わからないことばかりだった。でもはっきりした正解がある方が稀で、人生に起こる大抵のことは正解がわからないままなのかもしれない。

「もしあの子があの部活に入らなかったら」と私は当時よく考えた。そうしたらごく普通の中学生として無事でいられたんだろうか。

もしかしたら他のクラスのもめごととか他の人間関係のトラブルが部活の代わりに起こったのかもしれない。

たくさんある分かれ道の一つを咲は選んで進み、結果として病気になってしまった。でも選ばなかった道の方がさらにひどい未来に続いていた可能性だってあるのだ……。

しかしどれだけ考えても過去に戻れてやり直せることはない。その時にベストだと信じて選んだのなら選ばなかった道はキッパリ忘れて進むしかない。

もう入院して療養する道を咲は進んでいる。進んでいくだけだ。戻れることはない。


 

志望校は二日間続けて受験だった。

病院と受験する高校との往復をはどうしようか。タクシーを使えば私が車を出さなくても咲だけで病院と受験する高校を往復できる。でも運転手さんに訝しがられるのを嫌がるだろう。他の人に送迎を頼むこともできない。他の人に頼むとすると、体調が悪いのにその人に対して気を遣い、さらにエネルギーをすり減らしてしまう。

いろいろ考えたが結局私が会社を休んで送迎することにした。二日目は午前のうちに受験が終わるから、午後から出勤することだってできる。

受験票は桜井先生が直接家に届けてくれた。受験当日は市内の高校を受験する場合、受験高校まで各自で行き、特派員みたいに各高校に配置された先生たちがその高校を受験する生徒の点呼や激励をしてくれるそうだった。咲が受験する高校は市外だったのでそういう役割をする先生はだれも来ないそうだった。受験する生徒も咲一人だったので完全に親子だけでその高校に行くことになった。好都合だった。

学校の先生にも生徒にも、生徒を送ってくるはずの保護者にも、私は誰にも会いたくなかった。

咲が入院してからは私はなるべく家にいるようにした。買い物するときは遠くの店に行っていた。店や出先でばったりと同級生の保護者や部活関係の保護者に会ってしまったら、咲の入院について聞かれるに決まっている。

どうしたの?病気なの?どこの病院に入院してるの?受験はどうするの?

どんなに優しく聞かれたとしてもその言葉に含まれる少しの好奇心が刃のように心に刺さる。

アガサ・クリスティーがメアリ・ウエストマコットの名前で書いた

「春にして君を離れ」という本に

「まるで血のようだね。心臓から滴り落ちた血の雫のようだ」

という一文がある。

その本の登場人物のロドニーが血のように赤いシャクナゲの花を見て言った台詞だ。自分の思い描く人生を実現できず絶望に包まれていたロドニー。彼の「血の雫」という表現は発露だ。シャクナゲの花の色を、自分の心情と重ねて言葉にしている。心の中にとどめておけずに溢れてしまった悲しみが本人の選ぶ言葉となって表れている。

「心臓から滴り落ちた血の雫」

辛さで疲弊した時に私はよくこの一文を思い出した。

私にも夫にも鋭い鉄の爪が強くよわく心に食い込んで、心が血を流しているように思えた。やたらに鮮やかな赤色もはっきり想像できた。